宮崎空港「日向屋」にて商品販売
2018年04月03日
宮崎空港2Fの売店「日向屋」4月1日よりリニューアルオープンとともに、まんぷく高鍋ブランドの商品も販売されています。ぜひおみやげにお選びください!
なお、4月8日(日)高鍋舞鶴公園での桜祭りでは新商品を発売します。こちらもお楽しみに!
キャベツから始まる可能性
2018年03月05日
馬渡さんからバトンを受け取ったながとも農家の永友飛鳥です。自分は「その人の生き様」について興味を持つ方なので、今回自分の事を記載させていただきます。
私は高校、専門学校と洋裁関連を専攻しアパレル関係で仕事をしていました。割愛しますが、色々あり帰郷。
省略しまして、後に主人に出会い、農家に嫁ぎます。
しかし農作業がどうも苦手だと判明。
野菜は好きですが、現場は趣味程度の規模では無いのです。農作業に喜びを感じられない反面、嫁いだ以上好きになりたいと、葛藤と孤独感の日々でした。
しかし苦しい状況でも助けてくれる人は必ずいるもので、婦人会や地区の行事などに参加したり、頭で考えるより行動に移し、地区の人たちの優しさのお陰でここで農業をして生きてみようと言う意識にいつのまにか変わっていきました。
そして「確実」や「絶対」がない自然との作業。
天候などで値段も上がったり下がったり。「農業はバクチだ」とよく言われます。
その為、いかにキャベツの付加価値をつけるか。
その可能性が「ひまわりキャベツ」だと農業者関連の奥様で立ち上げた「農奥」の一員として、染ケ岡のひまわりキャベツのイベント、講演会や料理教室等で普及活動をしています。
たまに何の為にある農業なのか考えるときりがないのですが、
子供達や消費者の方々が美味しく作物を食べている姿が1番嬉しく、この為に頑張っているのは確かです。
永友さんとこのキャベツがいい!高鍋町のキャベツがいい!!と言ってくれるようなキャベツ作りが出来るよう、夫婦頑張っていこうと思います。
キャベツから始まる可能性を広げてくれた加工品も大切に
今後も沢山広げていきたいと思っています。
次は「はなうた活版堂」の脇川さんにバトンタッチです。
読んでいただきありがとうございました。
魚釣りにも全力投球していました
2018年02月14日
古川さんからバトンをいただきました馬渡です。
餃子の馬渡は、昨年、創業五十周年を迎えました。なので、生まれた頃から餃子屋です!
しかしながら、初めは家業の餃子屋を継ぐつもりは全くなく、インテリアデザインの道に進み、最終学歴が全く関係ない「九州デザイナー学院」ですw
デザインの重要性は、デザイナーさんと少しは共有理解できるところだと自負しています。
お約束の餃子の話に行きたいところですが、餃子の話はしません(^^;)
引退という言葉はふさわしくないとは思いますが、魚釣りを少したしなめていました。
趣味が高じて、某有名メーカー2社とスポンサー契約を結び、発売前の商品開発や販促、雑誌の連載・取材など、仕事同様、全力投球していました!
発売前のルアー・糸・竿をテストするために、日本のあらゆる海を釣行し、ましてや、インドネシアやオーストラリア、グアムなどの海へ足を運びました。
思い出は、メーカー同行の元、インドネシアに商談もかねて釣行に行った際に、なぜか私のためにサイン会の会場が設けられ、会場に行くと500人ほどの釣り人が待ち構えており、当然サインなども書けるわけもなく、色紙やキャップ、衣類などに、カタカナの「マ」の字を全員にサインしました!
(ペテンですよね・・・w)
4年前にメーカーとの契約を更新せず、一般の釣り人となって、子供とたまに行く釣りが楽しみになりました。
第一線から退いてみると、一つの道を究めることの凄さを実感しています。これからは、『餃子道』で極めていきたいと思っております(笑)
餃子の主原料であるキャベツをつくっておられる、永友飛鳥さんにバトンをわたします。
あの春の話
2018年02月02日
たかなべギョーザ 武末さんからバトンを受けました、ストロールデザインの古川です。
まんぷくTAKANABEプロジェクトのデザインチームで唯一の町内在住者であります。
そんな私、出身は神奈川県藤沢市。高鍋に移住して今年で12年になります。
家内の都合でこの町に移住した訳ですが、話すと長くなるのでこれはまたの機会に。
高鍋に住んでみて「いいな」と感じることは沢山あるのですが、ひとつ取り上げると小さな面積に全てがギュッと詰まっているところ。まちの人たちとの関係もギュッと詰まっていて、まるで「町民全員となり近所」みたいな心地よい感覚です。
もともと高鍋の事はほとんど知りませんでしたが、移住するずっと前に「高鍋」を意識した事がありました。
それは丁度20年前、1998年 第70回 選抜高校野球大会、そう「春のセンバツ甲子園」です。この大会は神奈川県の高校野球ファンなら誰もが「あぁ、あのセンバツね!」という大会でした。なぜなら松坂擁する横浜高校と、日大藤沢高校の二校が出場し、この二校が共に好成績を収め(横浜優勝)、初の決勝神奈川対決を期待していたからです。
さらに日大藤沢高校は私の実家から目と鼻の先なんです。そりゃもう普段野球に興味がない家族も近所も大盛り上がりでした。
そんな日大藤沢にベスト4をかけ立ちはだかったのが、高鍋高校だったんです。当時の高鍋高校は丁寧に繋ぐコンパクトベースボールで粘り強いチームだった印象です。試合はもつれ、延長10回サヨナラという劇的な幕切れ。記憶に残る熱戦でした。
余談ですが、この日のスタンドに当時高校3年生の家内がいた事を後に知った時は鳥肌がたちました。
さらに当時の高鍋高校のキャプテンは今期まんぷく事業に参加してくださる「仕出しのおざわ商店」小澤正隆君。家内とはお隣さんの幼馴染です。そりゃそうです。4番バッターの魚屋さんも、俊足巧打のスポーツ用品店も、あの人も、この人も、なにしろみーんな「となり近所感覚」ですから。
そんな「町民全員となり近所」なコンパクトシティ高鍋の心地よさは、先人から「丁寧に繋ぎ」紡いだ歴史と、「となり近所的チームワーク」なんだな、と思ったりします。
あの春の高鍋高校の様に。
さて次のバッターは餃子界のクリンナップの一人、馬渡陽一郎さん、よろしくお願いします!
新年明けましておめでとうございます
2018年01月06日
新年明けましておめでとうございます!
今年もまんぷくプロジェクト盛り上がっていきましょう!
と言いながら、黒田さんからバトンを頂いて随分時間が経ってしまいました…。
初の投稿ですので私の商売に関する歴史を紹介させて頂きたいと思います。
たかなべギョーザは昭和46年に創業、今年で47年目を迎えます。父が創業して餃子屋としては私で2代目になるこの店ですが、元々我が家は幕末辺りから代々醤油屋を営んでいたそうで、醤油醸造元『武末商店大和屋』という屋号で商売をしていたそうです。
大正時代には当時の皇太子(昭和天皇)に醤油を献上したこともあるそうで、その証が今でも残っております。
当時町内にはいくつかの醤油蔵があったそうですが、太平洋戦争に出兵した蔵人達は戦死したり、無事に帰還しても小さな蔵元は大きな蔵元に統合されたりで、現在まで残っているところは無いようです。武末商店もそんな蔵元の一つで、私の曾祖父の代でその歴史に幕を閉じたそうです。先日私の尊敬する方が年頭の挨拶で『生き残る者は決して強い者ではない。進化と変化をしてきたものが生き残る』(ダーウィン進化論より引用)と述べられました。時代は変わり形を変えても武末商店は今も尚、商人としてのDNAを後世に受け継ぐべく、進化と変化を遂げていかなくてはいけないんだな!と感じたお正月でした。
その進化、変化に欠くことのできないデザイナー古川浩二氏にバトンを渡して私のコラムとさせて頂きます!ありがとうございました!
「暮らしを楽しむ」女性が多いまち
2017年12月24日
まんぷくTAKANABEデザインチーム
Cook+ieDESIGN WORKの黒田です。
事業内では、ひょっとこ堂さまのデザインを担当させていただいています。
そのひょっとこ堂の田中さんからのバトンを受け取ったということで、本題へ入りたいと思います。
「暮らしを楽しむ」女性が多いまち
私にとって高鍋は、数年前から、県北の実家から宮崎市内へ戻る途中にエルザさんへ寄り道して、1杯の珈琲を飲むのを楽しみにしていたこともあり、『一息できる雰囲気のあるまち』だったり、以前手がけた雑誌のお仕事から、『生き生きと暮らしを楽しんでいる女性作家さんが多いまち』という印象でした。
少し私の仕事のお話をさせていただきますと、比較的ページ物の案件を手がけることが多く、企画をしたり、入稿いただいた原稿のレイアウトをするのが主です。
今回の事業では、パンフレットを作るにあたり、デザイナー自身で取材まで行うという、良い機会をいただきましたので、まずは高鍋町観光協会のホームページに記載されている「コンパクトシティー」を体感してみようと、チームの数名を誘ってレンタサイクルでまちを一周してみることに。
その途中出会った方々とお話をしてみると、高鍋町に住む人たちは自分のまちへの満足度が高いように思いました。
「高鍋ってどんなまちですか?」
そう質問をしますと、大抵
「便利で暮らしやすいまちですよ」
「まちの人たちみんなが仲良しです」
とお返事が返ってくるのです。素晴らしいですよね!
そして、とりわけ多かったのが
「子育てしやすいまちですよ」
というお返事。
そのことを裏付けるようなエピソードが、
同じデザインチームの古川さん(高鍋在住)の息子さんが1年生となり、小学校へ初登校という日に、たかなべ餃子の武末さんが「大切な記念の日だから」と見送りに来てくれたというもの。
コンパクトなまちだからこそ、近隣とのあたたかい交流や絆が生まれ、自然と見守り子育てもできているのだなぁと実感しましたし、まちの魅力の一つに私も気づけたような嬉しい気持ちになりました。
あぁそっか。安心して子育てできるまちだからこそ、『ホっとできる雰囲気』があったり『暮らしを楽しんでいる女性』が多いのかな。
当初の印象はあながち間違いではなかったのかも。と、ちょっぴりまた嬉しくなってきたところで・・・次のバトンをエピソードにも登場した、たかなべ餃子の武末さんへお渡ししたいと思います。
『川上神社』をご存知ですか?
2017年12月15日
前回の藤原さんのコラムから、しばしお待たせしてしまいましたが、バトンを頂きました私、ひょっとこ堂の田中が今回の担当です^_^
簡単に自己紹介をいたしますと、宮崎県産のくだものを加工するお仕事をしてまして、主にゼリーやジュースを作っております。
まんぷくプロジェクトでは果実のシロップを作っております。
さて、早速コラムの本題に入りますが、高鍋町にある『川上神社』をご存知ですか?
高鍋町から西都市に向かう道のめいりんの湯の手前にあり、赤い鳥居が目印です。
実は私も2年前までは知らなかったのですが、
ある日曜日にめいりんの湯で温泉に入った時、休憩室に貼られた一枚の紙に『商売繁盛の神、川上神社 〜ある飲食店を営む人が参拝したところ、たちまち繁盛店に…』みたいなことが書いてあったのを見て、速攻で参拝に行きました!!
正直、立ち上げたばかりの仕事が上手くいかず、売上も全然なくてしんどい時期だったので、本当に藁をも掴む思いでした^_^
良い結果を求めるというよりは、どこか心のゆとりを求めていた気持ちが強かったと思います。
で、ここからは本当の話ですが、
ナント!参拝した数日後に大口の仕事の依頼が入り、その月は当時の過去最高売上となりました。
それからというもの、少しずつではありますが、商売も繁盛に向かっていっています。
毎月数回は出勤前に参拝しています^_^
ひっそりとした神社ですが、すごく心が澄んでいくのがわかります。とても良い雰囲気ですので、商売繁盛を願う方も、そうでない方も良ければ是非足を運ばれてみてください^_^
さて、さて、次回のバトンはまんぷくプロジェクトでともに取り組んでおりますCook+ie DESIGN WORK (クッキーデザインワーク)黒田シホさんによろしくお願い致します^_^
牛はまんぷくにさせていいのか?
2017年11月24日
皆さまこんにちは。㈲藤原牧場の藤原一信です。コラムなんて書くのは初めてなので、温かい目で見てください。
『まんぷく』にちなんで、『牛はまんぷくにさせていいのか?』
てな感じのテーマで、書いてみます。
昔、よく『食べてすぐ寝たら牛になる』と迷信として言われてきました。この迷信の意味を考えてみたのですが
牛には上の歯が無く、下の歯と臼歯で草などを噛みます そして牛には胃袋が4つあり 食べた餌は第一胃(ミノ)→第二胃(ハチノス)に送られます、この二つの胃には消化を助ける微生物が存在し分解を助けます。しかしまだこの段階では十分に消化できる状態ではないのでいったん口に戻して 再び噛み戻す、反芻(はんすう)という方々をとり、そこから第三胃(センマイ)→第四胃(ギアラ)で消化液により消化をやっとできるようになります。 反芻行動はゆっくり座った状態で長時間行うため 『大きな牛はよく寝てる』のイメージから『食べてすぐ寝たら牛みたいに大きくなるよ』
ということに勝手な持論ながらこういう意味ではないのかと考えました
さて テーマである『牛はまんぷくにしていいのか?』なのですが牛は1日 約12㎏の餌と草を食べます!そして1日 約 1㎏づつ体重が増えていきます。 ちなみに海外では成長ホルモン剤などを入れて1日 2.5㎏増える牛を作る国もあります…
これを見ると牛は常にまんぷくにさせれば大きくなるんじゃないかと思われがちですが、そう簡単には大きくて中身の良い牛には育ってくれません、肉になる牛を育てるステージとして大きく3段階に分かれます
① 育成期 月齢1ヶ月~12.3ヶ月
牧草やワラなど繊維質の高い粗飼料を中心にビタミンの多く入った健康に配慮した穀物飼料を少なく制限して与えて 胃袋と骨格をしっかり形成します。
② 肥育期 月齢13ヶ月~21ヶ月
1日 10㎏~12㎏のビタミンを抜いた穀物飼料をワラと一緒にしっかり食べてもらう この時期はまんぷくにさせ続けて筋肉の形成と筋肉の中にサシを入れる
③ 仕上げ期 月齢22ヶ月~29ヶ月(出荷まで)
1日 8㎏~10㎏ ビタミンの少し入った穀物飼料を制限して無駄な脂肪を削ぎ落とし、長めのワラをやって反芻をさせてゆっく寝かせて
肉にうまみを閉じ込めます
主にこの三段階の行程でで牛の品質が決まります。 よって牛はまんぷくにする段階と制限をする段階があるということです!
常に食べる状態を管理するのは長年の経験と牛の状態を監視する目が必要ですが、弊社は今年から一頭ずつにICセンサーを着けて、24時間監視するシステムの導入をスタートしました。
人工知能でのセンター管理でクラウド式なのでパソコンやタブレットで現場での確認もできるようになりました。まだまだ開発途中ですが人間の目+ITの力で現場の能力は格段にアップすると思います。
まだまだ語ると止まらないのでこの辺で終わります。
長文になりました、次回は短くします。
次のコラムをひょっとこ堂の田中くんにお願いいたします。
ルピナスパークは高鍋か?
2017年11月10日
「ルピナスパークは高鍋か?」
『まんぷくTAKANABE』に関わるデザイナーや事業者さんたちでリレーコラムをスタートします。力を抜いて、その日思ったことを綴っていけば、きっと楽しいことにつながっていくのではないかと思っています。
トップバッターはデザインチームリーダーをさせてもらっています小野信介です。
僕は延岡に暮らしています。最近では高速道路が全線開通したので多少機会は減ったけど、それでも国道10号を通って高鍋を通過することは月に2、3回ではきかないと思います。北から高鍋に入る時、僕の中での境界、つまり「ああ、高鍋に入ったな。」と思うのは山椒茶屋の巨大水車を見た時です。ついでに、南の境界(あくまでも自分の中での勝手なイメージなので町内の方は怒らないでください。)は宝酒造さんの大きな焼酎工場を見ながら海亀の親柱の橋をカーブなりに渡る時でした。
実際は北はもっと北、(ルピナスパークから高鍋町ですね。)南もずっと南(万福寺さんあたり)が新富町との境界なんですね。
なぜ、そういう風に勝手にイメージを作っていたのか?多分それは「高鍋=市街地」というイメージがあったからではないかな?と今、自分を分析しています。
お城があって、高校があって、今井美樹さんみたいな人が住んでいて(イメージです。)・・・「高鍋は街」と漠然と思っていました。
『まんぷくTAKANABE』に関わらせてもらって、高鍋が本当にコンパクトな町であること、風土や歴史、住んでいる人たちの仲間意識が少しずつわかってくるにつれて、なんとなく僕が持っていた高鍋の密度の高いイメージもあながち間違いではなかったなと思ったところでした。
とは言え、勝手に町の面積を小さくしては大問題ですし、次にバトンを渡す「ヤミー・フードラボ」の谷口さんを町外に追いやってしまうことになりますので、今後はしっかりと高鍋の大切な町土を意識していきたいと思います。
そんな風に、町に対するあいまいなイメージを持っている全国の人たちに向けて高鍋町のブランドを作り、魅力を発信していくことは簡単なことではありませんが、みんなで屋台を作った時の楽しさとワクワクをプロジェクトの中心として、頑張っていけたらいいなと思っています。2年目の「まんぷく」楽しく前に進みましょ!
では、ヤミーの谷口さん、リレーコラムのバトンを渡します!よろしくおねがいします!